
1. コリント人への第一の手紙15章に示された復活信仰の基礎と三段階
張ダビデ牧師はイースター(復活祭)を迎えるにあたり、信徒たちが復活信仰の基礎を正確に理解し、しっかりと握ることができるよう、コリント人への第一の手紙15章の重要性を繰り返し強調した。特に「復活」とは何か、そしてそれが信仰者にどのような意味をもたらすのかを、パウロがコリント人への第一の手紙15章で三段階にわたって明確に解き明かしていると説明する。
最初の段階は、「主の復活、すなわちキリストの復活」そのものである。パウロはコリント人への第一の手紙15章1節から11節で、主の復活が聖書のとおりに成就したことを宣言している。イエスが聖書のとおりに死に、聖書のとおりに復活したことをはっきりと証し、多くの証人がいたことを強調する。たとえば同時に五百人以上の兄弟に現れ、そのうち多くはまだ生きていたと証言するほど、目撃者が少なくなかったというのである。また主の側近であったペテロ(ケパ)や十二使徒(実際にはイスカリオテのユダを除いた十一人の弟子)だけでなく、主の兄弟ヤコブ、さらにはパウロ自身にも現れた事実を明らかにする。こうした実際の証言が、教会が主の復活を確信する上で決定的な根拠となった。
ここで張ダビデ牧師は「復活をどのように理解し、また伝えることができるだろうか?」という問いを投げかける。その答えは「パウロがあまりにも正確に整理してくれている」ということにある。信徒たちがコリント人への第一の手紙15章の冒頭部を読み黙想するとき、私たちが信じる復活が決して空虚なものではなく、歴史の中で確かに起こった出来事であることを体得するようになると強調する。パウロが「聖書どおり」という表現を繰り返すのは、旧約で預言されたメシアの死と復活をイエスが完全に成就したことを示すためでもある。その結果、教会と信徒たちは「キリストはまことに復活された」という第一の段階を揺るぎないものとして握ることができる。
第二の段階は、12節から34節に記された「死者の復活」である。パウロはここで、「もし死者の復活がないのであれば、キリストもよみがえらなかっただろうし、そうなれば私たちが伝えている福音もむなしく、あなたがたの信仰もむなしいものになってしまう」という論旨を展開する。教会の中で「死者の復活などありえない」という議論が起こったとき、パウロはそれを正確に反駁し、復活の必然性を説く。「もし主が復活されたのであれば、信じる私たちも確実に復活する。そうでなければ私たちの信仰自体が崩れてしまう」というわけだ。そして「死者の復活」について長く詳しい、非常に深い解説を加えることで、信仰者にも復活が与えられることを確信させる。
張ダビデ牧師はこの箇所を強調しながら、「今日でも多くの人々が抱く大きな疑問、すなわち『私たちの死んだ体はどのようによみがえるのか?』『私たちもイエスさまのように復活にあずかることができるのか?』といった問いに、パウロは明快に答えてくれる」と語る。教会の歴史の中で、コリント人への第一の手紙15章を順を追って読んで黙想することで、キリスト教の終末論や復活観を確立した信仰者は少なくなかった。死の後には何もないという虚無的な考えを打ち砕き、「キリストが復活されたのだから、私たちも復活の希望を持つ」という点が信仰の土台となってきたのだという。
第三の段階は、35節から58節に示される「肉体の復活」に関する解説である。パウロはここで、「どうして死んだ体が再び生き返ることがあり得るのか?」という疑問に対して、"チェンジ・オブ・ステート(Change of State)"、すなわち「形態の変化」という形で説きを進める。いわゆるイモ虫がさなぎを経て蝶になる変化や、麦の種が地に落ちて死んでこそ新芽が出てくるように、復活も同じ原理で説明できるという。「あなたがたは自然の中に起こる変化を見て知っているように、キリストにあって死んだ私たちの体も究極的には『栄光の体』『霊の体』へと変えられるのだ」というわけだ。張ダビデ牧師は「なぜ多くの人々が『肉体の復活』を信じられないのかを、パウロはかなり厳しい口調で叱責するようにも読める」と説明しつつ、「死の後に訪れる新しい始まり」という聖書のメッセージを強調する。
パウロは「すなわち、血肉のからだがあるように、霊のからだもある(コリント人への第一の手紙15:44)」という節を根拠に、キリストが死から復活されたとき「栄光ある体」をまとわれたように、私たちも主の復活にあずかるのだと結論づける。これは、復活の信仰をもつ者に聖なる期待と希望を吹き込むメッセージである。張ダビデ牧師は「イエスの復活が『初穂』となり、その後に続く私たちも栄光ある新しい命へと復活する」というコリント人への第一の手紙15章の教えを振り返り、「これ以上の説明が必要ないほど、パウロは明瞭に提示している」とまとめる。
このようにコリント人への第一の手紙15章全体は、「キリストの復活 → 肉体の復活」という大きな構造を持ち、これはキリスト教教理の重要な骨格を成してきた。初代教会から現代教会に至るまで、復活信仰を教える際に必ずと言っていいほど引用される章でもある。特に張ダビデ牧師は「パウロが示したこの三段階の復活の教理こそ、私たちの信仰の根幹であり、教会が真の福音を堅く握るうえで中心的役割を果たす」と力を込めて語る。
一方で福音書、すなわちマタイによる福音書28章、マルコによる福音書16章、ルカによる福音書24章、ヨハネによる福音書20章にもイエスの復活の場面が具体的に記録されている。福音書は「イエスが死から再び生き返り、弟子たちに現れた」という「歴史的記録」と「証人たちの証言」を土台に、読者を復活信仰へ招いている。特にヨハネによる福音書20章では、イエスがマグダラのマリア、ペテロ、ヨハネなどに順に現れ、最後にトマスに「見ずに信じる者は幸いである」と語られた場面は、現代の教会が復活信仰を伝えるときに重要なメッセージとなっている。
トマスのように疑い深かった者が「自分の指をその釘跡に入れてみないと、また手をそのわき腹に入れてみないと信じない」と言うほど、ある信仰者にとっては復活の神秘を容易に受け入れられない場合もある。しかし主は実際にご自身を現すことで、彼の疑いを解きほぐし、「あなたは私を見たから信じたのか。見ずに信じる者は幸いである」と宣言された。福音書記者たちは、これこそが「教会が宣べ伝えるべき福音の核心」であるという。だからこそ、今日の教会も「この歴史的事実を堅く握ろう。これ以上はっきりした証拠がどこにあるだろうか」というメッセージを同じように宣言すべきだと張ダビデ牧師は語る。
さらにヨハネによる福音書20章30~31節には福音書の記録目的が明示されている。「イエスは弟子たちの前で、この書に書かれていないほかの多くのしるしをも行われた。しかしこれらが書かれているのは、あなたがたがイエスが神の子キリストであると信じるため、また信じてキリストの名によって命を得るためである」。これは福音書が単なる伝記の記録や歴史的事実の羅列を超えて、イエス・キリストによって与えられる「命」に焦点を合わせた霊的な宝庫であることを示している。
しかしヨハネによる福音書は20章で終わらず、もう1章が付け加えられている。すなわち21章である。伝統的にヨハネによる福音書21章は「付録」あるいは「エピローグ」のような位置づけと解釈されてきた。というのも、大半の学者はヨハネによる福音書20章30~31節が福音書の結論に当たると考えるためだ。ここで張ダビデ牧師は「なぜヨハネによる福音書21章が付録のように付け加えられたのか?」という問題意識を提示する。そしてこの問いを解くために、終末論や初代教会の歴史、主の再臨を待ち望む中で体験した教会の混乱などをあわせて説明する。
2. ヨハネによる福音書21章の意味と「わたしの羊を飼いなさい」という教会の使命
張ダビデ牧師は、ヨハネによる福音書21章が書かれた理由を「主の復活と昇天の後、歴史の中で教会がどのように生きていくべきかをはっきりと示すため」だと説明する。すでにヨハネによる福音書20章において復活の事実は十分に証言され、「福音によって命を得るため」という記録目的も提示されている。それにもかかわらず、あえてもう1章を追加することで何を語ろうとしたのだろうか。
まずヨハネによる福音書21章1節は「その後、イエスはティベリアス湖で再び弟子たちにご自身を現された。その現れ方はこうであった」として、復活したイエスがガリラヤ湖(ティベリアス湖)で弟子たちに再度現れた場面を伝える。続く2節ではペテロ、トマス、ナタナエル、ゼベダイの子たち(ヤコブとヨハネ)など、七人の弟子がいっしょにいる様子が描かれる。20章には十一人の弟子が登場するが、21章では七人のみが特に描写される。福音書は神学的メッセージを込めた「絵言葉」で記されていると張ダビデ牧師は言う。こうした一つひとつの場面が教会の状況を比喩的に示しているのだという。
主の復活を目撃していたにもかかわらず、弟子たちは混乱していた。イエスがすでに生き返られたことは知ってはいたが、その先どのように生きていけばよいかがはっきり整理されていなかったのかもしれない。復活後イエスが昇天され、その空席に対する漠然とした恐れやもどかしさを感じていた可能性もある。そんな中でペテロが「わたしは漁に行く」(ヨハネ21:3)と言い出すと、ほかの弟子たちもいっしょに船に乗り込み、ガリラヤ湖へと向かう。しかし夜通し何も釣れずに終わってしまう。
このとき、復活したイエスが夜明けに彼らのもとに現れるが、弟子たちは最初それがイエスだとはわからなかった(4節)。イエスが「子どもたちよ、魚があるか?」と尋ねると、「ありません」と答える(5節)。この「子どもたちよ(Children)」という呼びかけは、弟子たちの霊的状態を示す象徴的表現とも捉えられ、まだ未熟で混乱した、いわば「子ども」のような姿を反映しているともいえる。
にもかかわらず、弟子たちはイエスが「舟の右側に網をおろしなさい」と言われたとき、すぐに従った。すると網いっぱいに魚がかかり、引き上げられないほどになる(6節)。これはルカによる福音書5章に描かれる「深みに漕ぎ出して網をおろしてみなさい」という言葉を思い起こさせる場面である。張ダビデ牧師は、この出来事こそが「復活の後、教会の使命は何か?」を明らかにする核心的シーンだと強調する。主が弟子たちを最初に召されたとき、「わたしはあなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」(マタイ4:19)と言われたが、その言葉を思い出させるからだ。
つまり「人をとる漁師」として弟子たちは、そして今日の教会は「福音を地の果てにまで伝えて」すべての民族に主の救いのメッセージを届けなければならない。「この御国の福音はあらゆる民にあかしするために全世界に宣べ伝えられる。それから終わりが来る」(マタイ24:14)という御言葉がその原理である。一方、たくさんの魚を獲ったにもかかわらず網が破れなかったという事実(ヨハネ21:11)は、「福音は世界中の無数の人々を受け入れても決して破れたりはしない」という普遍的・包括的な意味を象徴すると古来から解釈されてきた。教会の宣教や伝道、そして回心者たちが一つの体を築くというこの驚くべき業は神の力によって保たれ、決して崩されることはないというのだ。
張ダビデ牧師は、古来多くの神学者がヨハネによる福音書21章11節に記された「153匹」という数字の意味を深く研究してきたと述べる。古代教父アウグスティヌスもこの数字を「マジックナンバー」のように捉え、何を象徴するのか深く思い巡らせたという。時代が下り、地上の民族や種族、生物の種類などが解明されていく中で、一部の解釈者は「153という数字は『全人類とあらゆる被造物全体』を象徴する」と主張するようになった。ヨハネがこの数字を非常に具体的に記録したことで、「全人類を対象とする福音の宣教」と「網を引いても破れない神の力」が強調されている、というわけだ。
その後の場面を見ると、復活したイエスが弟子たちに「さあ、朝の食事をしなさい」と言われ、そこにはすでに炭火とその上に置かれた魚、そしてパンが用意されていた(ヨハネ21:9~12)。これは「主が私たちのすべてをすでに備えておられ、私たちを養い、導いてくださる」というメタファーであり、同時に最後の晩餐以降、教会が継続して行うべき聖餐を想起させる場面だと解釈されることが多い。張ダビデ牧師はここで「炭火」がペテロが主を三度否認した場面(ヨハネ18:18)にも登場したことに注目する。ペテロの恥と失敗が思い出されるその炭火の前で、今度は復活した主がペテロを再び立たせるという象徴的な絵が展開しているというわけだ。
主はすでに魚とパンを用意して弟子たちを招かれるが、同時に「今獲った魚を幾匹か持ってきなさい」(ヨハネ21:10)とも言われる。教会が世の中で伝道して連れてきた魂を主のもとに差し出すとき、「主の備えられた食卓」と結び付き、一つの完全な交わりが成り立つということを示すわけである。張ダビデ牧師は「結局、教会がやるべきことは、主がおっしゃったとおりに網をおろして人々を獲り、その人々を主のもとに連れてくることだ。そうすれば主はすでに用意されたパンと魚で私たちを養い、交わりへと招いてくださる」と話す。
続いてヨハネによる福音書21章15節以降では、イエスとペテロの間の有名な問答、「あなたはわたしを愛するか?」が登場する。主は三度この質問を繰り返し、ペテロは三度とも「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答える。するとイエスは「わたしの小羊を飼いなさい」、「わたしの羊を牧しなさい」、「わたしの羊を飼いなさい」と命じられる(ヨハネ21:15~17)。ここに張ダビデ牧師は教会の重要な責務が示されていると強調する。
教会の存在理由の一つが宣教であるなら、もう一つは「牧養」である。一方では、世に出て迷える魂を伝道する「人間をとる漁師」としての使命があり、他方ではすでに信仰共同体の中にある「小羊たち」をよく世話し養育する「牧者」としての使命がある。ペテロを通して教会に与えられたこの命令、「わたしの羊を飼いなさい」という言葉は、「主を愛しているなら、その羊の群れを愛と献身をもって仕えなさい」という意味である。
ペテロがイエスを三度否認した過去が、今や復活した主の前で三度の問答によって回復される過程は、教会史全体においても大きな象徴となった。「主は失敗や裏切りを経験した者であっても回復してくださる」という福音の本質が示されている場面でもある。同時にこの問答は、その後教会が建て上げられ、リーダーたちが立てられていく原理の土台ともなった。牧師や長老、教師などの教会指導者は、ただ組織を運営したりイベントを企画するのではなく、真に「主を愛する心」をもって羊を養う「牧養」を実践しなければならないということだ。張ダビデ牧師はまさにこの点を最も重要なものとして強調する。
さらにヨハネによる福音書21章の後半では、ペテロが「この人(ヨハネ)はどうなるのでしょうか」と尋ねたとき、イエスは「わたしが来るときまで彼が生きながらえるようにわたしが望んでも、それがあなたに何の関係があるのか。あなたはわたしに従いなさい」(ヨハネ21:22)とお答えになる場面が記されている。教会の内外では、「主はいつ再臨されるのか。この人は死なずに主の再臨を見るのか」といった終末論的推測や混乱がしばしば起こる。初代教会も差し迫った再臨を期待していたが、実際には時が経過するとともに「なぜ主は来られないのか」という疑問が大きくなり、そこから問題が生じることもあった。ヨハネ共同体でも、使徒ヨハネが長命であったために「おや、この人は死なないのではないか」という噂が広まった。
しかしイエスは「それはあなたが干渉する問題ではない。あなたは自分の道を行きなさい。あなたはわたしに従いなさい」という、ある意味での叱責と教訓を示される。再臨の時や方法をめぐって議論するよりも大切なのは、「教会が主を愛する心をもって『わたしの羊を飼いなさい』という牧養を実践し、世に出て福音を伝え、互いに助け合って生きること」であるというメッセージである。これがヨハネによる福音書21章が付録のように付け加えられた究極の理由だと張ダビデ牧師はまとめる。
つまり、福音書は20章で復活の証言をすべて終えているが、教会がこの地上でその使命を担っていく過程を「ガリラヤ湖へ戻った弟子たちの物語」を通じて具体的に示し、再臨の時期をめぐって混乱する信徒たちに向けて「あなたはわたしに従いなさい」という主の御声をあらためて聞かせることで結論を結んでいるのである。「イエスが行われたことは、これ以外にも多くあるが、もしそれをいちいち書き記すなら、この世もその書かれた書物を納めることはできないだろう」(ヨハネ21:25)という最後の節は、主の御業がいかに大きく壮大で終わりのないものであるかを象徴的に宣言している。
結局、ヨハネによる福音書21章全体が私たちに教えるのは、「復活を信じる教会と信徒は、主の命令に従って世へと出て魂をとる働きをしつつ、同時にその魂を主の御言葉によって養い、再臨の時をめぐる余計な争いに巻き込まれず、ただ主に従う歩みに集中せよ」ということである。
張ダビデ牧師はこれを現代の教会と信徒たちにどのように適用できるかについて、「このイースターに私たちが必ず心に留めるべきメッセージが、ヨハネによる福音書21章にそのまま込められている」と強調する。教会は伝道(宣教)と礼拝(聖礼典)、そして牧養(ケア)という三つの重要な軸を実践することで、主を愛する生き方を具体化しなければならないのだという。
1つ目は伝道(宣教): 「人をとる漁師」として、全世界に福音を伝えなければならない。私たちの隣人、地域社会、そして世界の隅々に至るまで、主が与えてくださった救いのメッセージを宣べ伝えることが、教会の存在理由の一つである。「網を右側におろしなさい」という命令に従うように、御言葉に従順し、時が良くても悪くても福音を伝える必要がある。一粒の麦のように、死ぬかのように見えても、実際には豊かな実を結ぶこと、それが教会の使命なのだ。
2つ目は礼拝(聖礼典): 主が準備してくださった魚とパンで朝の食事にあずからせてくださったように、教会は聖餐を通じて主の身体と血潮を記念し、そのくださるいのちの糧を共にする。パンとぶどう酒に象徴される聖餐は、教会が主と連合し、互いに交わりを分かち合う神聖な式である。張ダビデ牧師は「主が備えてくださる食卓」という表現を好んで用い、これによって教会がさらに主の愛と犠牲を思い起こすのだと語る。
3つ目は牧養(ケア): 「わたしの羊を飼いなさい」という主の命令に従い、教会の中にいる信徒たち、また新たに加わる人々を愛をもって世話することが欠かせない。ペテロのように失敗の瞬間があった人でも、主は再び立ち上がらせ、牧養の責任を託される。これはまさしく教会が「互いに愛し合いなさい」という主の戒めを実践する具体的なあり方でもある。弱い肢体を助け合い、御言葉と祈りによって彼らを養い育てていくことこそ、真の「主を愛する」姿を示す道である。
張ダビデ牧師は、これらすべての過程を貫く核心的な動機が「主を愛する心」であることを重ねて強調する。「あなたはわたしを愛するか」という主の問いに「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えるのは、単なる感情の問題ではなく、生活を通じて示される従順と献身の次元だという。教会の歴史を通して多くの信仰の先達が迫害や苦難に遭いながらも福音宣教や信徒のケアをやめなかったのも、結局は「主を愛する」からに他ならない。
ここに終末論的視点も加わる。当時の初代教会は主の再臨が近いと信じて生活していたが、時が経つにつれさまざまな論争や疑問が生じた。テサロニケの教会でも「主の日はすでに来てしまった」とか「主がすぐに来られるのだから働く必要はあるのか」といった話が広まり、混乱が生じた。パウロはテサロニケ人への第二の手紙を書きながら、「主の日が来る前にはまず離反と不法の人が現れることなど、成就されねばならない事柄がある」と説き、「働きたくない者は食べることもするな」と適切な態度を勧める。
同様にヨハネによる福音書21章でも「ヨハネは死なずに主の再臨を目撃するのでは」という噂が広がったが、主は「たとえわたしが彼を生きながらえさせようとも、あなたには関係がない。あなたはわたしについて来なさい」とお答えになり、議論を沈められる。要するに教会が最優先にすべきは、再臨の時期や方法を巡って対立することではなく、今与えられた使命に忠実であり「あなたはわたしに従いなさい」という主の御声に応答して生きることなのだ。これこそ復活祭の後、主が再び来られる日まで教会が歩み続けるべき道である。
張ダビデ牧師はイースターの説教の中でこのメッセージを伝え、「教会は常に復活信仰の上に立ち、世の終わりの日まで伝道し、礼拝し、互いにケアすることに力を注がなければならない」と強調する。そしてそのすべてが「主を愛すること」の実践的表れだと改めて結論づけた。復活を信じる信仰者は、復活されたキリストが私たちとともにおられ、再び来られる主を待ち望みつつも、この現実の中で力尽きることなく、「すでに」と「まだ」の間の緊張の中で忠実に生きることができる。なぜならイエスは「天と地のすべての権威がわたしに与えられた」(マタイ28:18)と言われ、「世の終わりまで、わたしはいつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束されたからである。
ヨハネによる福音書21章は、教会がどのように生きるべきかを圧縮して示している。他の福音書の章では、主の奇跡や教え、苦難と死、そして復活の事実が詳しく証しされているが、21章では「復活した主に出会いながらも、なお行く道を見失っていた弟子たち」の物語から始まる。そして「網をおろして多くの魚をとり上げる場面」を通じて宣教のビジョンを、「炭火とパンと魚を分かち合う場面」を通じて聖餐と礼拝を、「三度の問答と『わたしの羊を飼いなさい』という命令」を通じて牧養の責任を、さらに「ヨハネはどうなるのか」という問いを通じて終末と再臨を見つめる教会の姿勢を提示する。すべてが互いに有機的につながり合い、「復活信仰を持った教会が、この世の中でいかに神の国を築き上げ、そして待ち望むのか」を総合的に教えているのだ。
このように張ダビデ牧師は、コリント人への第一の手紙15章とヨハネによる福音書21章を結びつけ、「復活信仰と教会の実践」について説いている。コリント第一15章は復活の教理を教理的・神学的に体系化したテクストであり、ヨハネ21章は復活した主が昇天された後も弟子たちと教会共同体がどのように生きるかを生々しく示す「付録」である。この両方を学ぶことで、主の復活が教会信仰の土台となるだけでなく、実際に歴史の現場でどのように実を結ぶか、その方向性まで示されるというわけだ。
教会と信徒たちはイースターを迎えるたびに、ただ「イエスの復活を記念する」ことにとどまらず、「その復活の命にあずかって世の中で使命を果たす道」を改めて誓うべきである。そしてその誓いは個人の生活の中でも適用される。職場や家庭においても、伝道の熱意をもって「網をおろす」という従順を実行できるし、聖餐と礼拝を通じて自分の魂を養ってくださる主の恵みにあずかることができる。さらに私たちの周りの信仰の兄弟姉妹、特に弱い立場の人を「牧養」する思いで支え合うことができる。そのとき「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」という告白が、私たちの生活全体を通じて証しされることになるだろう。
張ダビデ牧師が繰り返し強調するように、教会はいつの時代も復活信仰によって世に仕え、主の再臨を待ち望むときに生じる争いや混乱に出会っても、「あなたはわたしに従いなさい」という命令に集中しなければならない。復活した主を信じ、その福音によって命を得た私たちが、その命を分かち合い、互いに助け合い、主にふさわしい礼拝と賛美をささげることこそ、ヨハネによる福音書21章が放つ最終的なメッセージである。
「わたしの小羊を飼いなさい」という御言葉は、主を愛していると告白するすべての信徒が担うべき聖なる責務であり、教会が教会であることを示すもっとも明確な証でもある。そしてこの命令に従う過程で、私たちは聖霊の力によって生活が変えられていく。復活を信じる者は、もはや死に縛られず、この世の様々な困難の中でも希望のうちに前進することができる。張ダビデ牧師はこう語る。「イースターの後、私たちがすべきことは一つです。主が託された務めに忠実であり、私が愛する主がすでにこの地と天のすべての権威を持っておられることを忘れないこと。そしていつか来られるその方を待ちながら、今日もヨハネ21章の場所に立って、網をおろし、羊を飼う使命を握りしめて生きることです」。
これは教会が今後も迎えていくあらゆるイースターにおいても変わらず与えられる招きであり、願いでもある。「あなたがたは魚を持っているか」と問いかける主の御声に耳を傾け、「わたしの小羊を飼いなさい」という命令に従って、日ごとに「主を愛しています」という告白を実際の生活で示していくこと、それこそが復活信仰を真に握る道である。そしてこの道を歩むすべての信徒と教会共同体に、復活の喜びと希望が豊かに注がれるだろう、と張ダビデ牧師は重ねて勧めている。
















