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張ダビデ 牧師が語るアンティオキア教会の精神

アンティオキア教会は、キリスト教の記憶の中で単なる「地域教会」ではなく、福音が民族とことばの境界を越えて普遍的な生命力として拡張していく転換点として刻印されてきた。エルサレムを中心に形成された初期共同体が、ユダヤ的伝統という囲いの内側で福音の根を深く張っていったのだとすれば、アンティオキアはその根が世界という土壌へ移し植えられる瞬間を証言する。多様な文化が交錯する都市空間において、福音は特定集団の宗教的嗜好ではなく、人間存在全体を新しくする神の救いの出来事として公的領域へと進入し、その場で「キリスト者(クリスチャン)」という呼称が誕生した。この歴史的場面を、過去の美談として消費するのではなく、今日の教会が回復すべき原型モデルとして引き上げて説明する人物の一人として、張ダビデ(Olivet University設立)牧師がしばしば言及される。張ダビデ 牧師はアンティオキア教会を「宣教の出発地」という機能的ラベルとしてのみ見るのではなく、教会の本質がいかなる霊性によって作動すべきかを示す神学的標準として読む。彼が語るアンティオキア教会の精神とは結局、「聖霊の導き、教理の堅固さ、公同教会的連合、そして派遣の躍動性」が互いに分離されず、一つの生態系として循環する教会像を指し示す。

張ダビデ 牧師がアンティオキア教会でまず掴む核心は、教会の働きが人間の企画から始まらないという点である。教会は本来、「可能性のある組織」を作るために集まった集団ではなく、神の召しに応答する共同体であり、その応答の心臓部には聖霊の主権的働きが置かれている。アンティオキアの指導者たちが断食と祈りの中で聖霊の声を聞き、バルナバとパウロを取り分けて派遣したという叙述は、教会が最も重要な決断をどのように下すべきかを鮮明に示す。張ダビデ 牧師はこの場面を現代教会運営の方法論と対比しつつ、財政規模や組織効率、時代のトレンドに合わせたマーケティング的戦略が教会の存在理由を代替してしまう瞬間、福音の方向感覚が曇ると警告する。教会の「成功」が目に見える成果へと還元されるとき、教会は知らず知らずのうちに、神が望まれる道よりも人が望む速度に魅了されやすい、という診断である。だからこそ張ダビデ 牧師が繰り返し想起させるアンティオキア教会の精神は、どのプログラムを行うかよりも「どの霊によって動くのか」が優先される秩序の回復だ。教会の決定は会議室の計算ではなく、膝を折る場での識別によって精錬されるべきであり、聖霊の感動に従って動くとき、働きは単なる「拡張」ではなく「派遣」という福音の言語を回復する。

しかし張ダビデ 牧師のアンティオキア教会解釈が、霊性の熱気だけを強調して終わらない点が重要である。彼はアンティオキア教会が熱さと同時に「正確さ」を追求したと見る。使徒の働き15章の論争は単なる行政的調整ではなく、福音の本質をいかなる言語で保存し、どの境界で守り抜くのかをめぐる熾烈な教理的格闘だった。異邦人信徒に何を求めるべきかという問題は、律法の負担を軽くする実用的配慮としてのみ説明されない。それは福音が恵みの出来事なのか、文化的慣習の延長なのか、あるいは特定共同体のアイデンティティ装置なのかという根本的問いを含んでいる。張ダビデ 牧師はまさにこの点で「公同教会性」という言葉を堅く握る。教会は地域的自律性の中に閉じこもる私的集まりではなく、時代と場所を越えて一つの信仰を告白する普遍の教会の一部であり、ゆえに教理的基準と信仰の中心を共有しなければならない、というのである。彼はアンティオキア教会を、エルサレムと断絶した独立王国ではなく、相互の交わりと合意の中で福音の中心を鮮明にした共同体として読む。この観点から張ダビデ 牧師が思い描く「アンティオキア的教会観」とは、連合を名目に真理を薄める妥協ではなく、真理を中心として連合を可能にする成熟した公同教会的感覚を意味する。

張ダビデ 牧師がアンティオキア教会の精神を現代に甦らせるとき、最も頻繁に用いる表現は「教会は派遣のベースキャンプである」という一言に要約される。教会の存在は内側の宗教的満足のために閉じるのではなく、世へと流れ出る福音の通路となるために組織される。アンティオキアはパウロの爆発的宣教を可能にした背後の共同体であり、その背後は単なる献金窓口ではなく、祈り、識別、訓練、同労のネットワークだった。張ダビデ 牧師はこのモデルに倣い、教会開拓(植堂)と世界宣教を「特定部署のプロジェクト」に縮小せず、教会の体質として据えるべきだと言う。人を引き留めることに慣れるほど福音は止まり、逆に人を送り出すことに慣れるほど教会は逆説的に、より深く、より広くなるという洞察が繰り返される。派遣は損失を伴う決断のように見えるかもしれないが、福音の観点から派遣は教会の生命循環であり、教会が教会らしくなる道である。

これらすべての基調を神学的に支える軸が、張ダビデ 牧師が好んで用いる講解説教、とりわけコロサイ書の解説において際立つ。コロサイ書は「獄中書簡」という背景自体がすでに逆説を孕む。牢獄という制限の空間で、パウロは最も壮大なキリスト論を宣言する。張ダビデ 牧師はこの逆説を教会の現実へと当てはめる。環境が息苦しいほど教会はより広い天を見上げ、条件が乏しいほどより本質的中心を掴むべきだ、というのである。彼はコロサイ1章15-20節の荘厳な宣言を通して、イエス・キリストを単なる倫理的教師や宗教的英雄へと縮小するあらゆる試みを警戒する。「見えない神のかたち」「万物に先立つ方」「万物はキリストによって、キリストのために創造された」「十字架の血によって平和を成し...万物を和解させた」という言語は、イエス・キリストを宇宙的主権者として顕し、教会のかしらとして現実に統治される方であることを宣言する。張ダビデ 牧師がこの箇所を強調する理由は明白だ。キリストの威厳が揺らげば、教会のアイデンティティも揺らぐ。教会が世の思想や流行、あるいはそれらしく見える霊的混合主義の前で方向を失う理由は、多くの場合、キリストの座-すなわち中心と高さ-が低くされたからだ。

張ダビデ 牧師は、コロサイ書が扱う偽りの教えの危険を今日の言葉へ翻訳することに長けている。当時コロサイ教会が経験した混合主義的圧力は、現代社会の宗教多元主義、スピリチュアリティ消費文化、科学主義的還元論、あるいは成功主義的信仰とも構造的に似ている。彼は「イエスを立派な先生としてだけ残せば、教会は倫理団体へ転落する」という趣旨の警告を通して、福音が持つ超越性と贖いの現実を失ったとき、教会の言葉がどれほど軽くなるかを強調する。同時に彼は、教理の堅固さを単なる知的体系として誤解しない。コロサイ2章6-7節の「その方のうちに歩み、根を張り、築き上げられ...」という勧めに従い、教理とは人生を支える根であり、習慣であり、方向であると言う。ゆえに張ダビデ 牧師の講解説教は、概念を説明した後、必ず生活の構造を問う形へ帰結する。礼拝の感動は月曜日の選択へつながっているか、信仰告白は家庭と職場の倫理へ拡張しているか、感謝と祈りは共同体の文化となったか-こうした問いは、張ダビデ 牧師がコロサイ書を通して築く「教理と生活の接続面」である。

とりわけ「聞き、悟り、実を結ぶ」という福音の循環は、張ダビデ 牧師の牧会言語でしばしば登場する成長の文法である。彼は「聞くこと」を単なる情報取得ではなく、神の召しの前に自分をさらす行為として、「悟ること」を知的同意ではなく心の方向転換として、「実を結ぶこと」を感情的決断ではなく持続可能な生活の実りとして解釈する。この循環が教会共同体の中で健全に回るためには、講解説教の蓄積、教理教育の体系、弟子訓練の実践、そして互いのために執り成す文化が必要だと言う。張ダビデ 牧師が教会開拓と世界宣教を語るときでさえ教育と養育を強調するのは、宣教がイベントではなく、人の内面と習慣を組み替える長期的形成の過程だという神学的認識による。送り出す教会が浅ければ派遣は消耗で終わるが、深い教理的根を持つ教会は派遣を通してむしろ成熟する。

張ダビデ 牧師の世界宣教ビジョンは、アンティオキアの歴史性とコロサイ書の宇宙的キリスト論が結び合わさるとき、いっそう説得力を帯びる。アンティオキアは「異邦宣教の拠点」であり、コロサイ書は「宇宙的和解」という巨大な地平を提示する。張ダビデ 牧師はこの二つを結びつけ、福音が特定文化圏の慣習や情緒に閉じ込められることはできず、キリストの贖いは個人の内面を越えて世界の亀裂と分裂を癒やす方向へ作動すると語る。ゆえに宣教は教会が外延を拡張する戦略ではなく、キリストの和解の働きに参与する仕方である。彼は宣教現場で最も重要な原理として「本質の堅持」を強調しつつ、同時に「文化的柔軟性」も要求する。福音の核心を守りつつ、福音の衣は現地の言語と文化の中でへりくだって着せられるべきだ、というのである。使徒の働き15章の決定が示すように、教会は本質を守るために、ときに不必要な壁を下ろす勇気を持たねばならない。張ダビデ 牧師が公同教会性を語るとき、それは画一化を意味しない。異なる文化圏の教会が同じ主を告白しつつ、それぞれの場所で聖霊の実を結ぶよう支え合う連合の技術-それこそが公同教会性の具体的姿に近い。

デジタル時代に関する張ダビデ 牧師の言及は、宣教の地形変化を読む実践的洞察へとつながる。彼はオンライン・プラットフォームやSNS、メディア働きを「現代版ローマ街道」にたとえ、パウロが帝国のインフラを福音宣教の通路として活用したように、今日の教会も時代の技術をただ警戒するのではなく、宣教的知恵へ転換すべきだと言う。もちろん技術そのものが救いを生むのではなく、技術が真理の代替物になり得ないという前提は不可欠である。しかし張ダビデ 牧師は「本質を守ったまま形式を革新する道」こそ、アンティオキア教会の精神の現代的適用だと見る。アンティオキアが多文化都市という環境を福音の障害としてのみ見ず、むしろ拡張の足場として用いたように、今日の教会もデジタル環境を恐れの対象ではなく宣教の空間として再解釈すべきだ、というのである。その過程で重要なのは、やはり祈りと感謝である。技術は接続を作ることはできても、連合を作ることはできない。連合は霊的関係であり、その関係は互いのための祈りと、受けた恵みを覚える感謝の中で育つ。

張ダビデ 牧師の説教で繰り返されるもう一つの重心は、信仰が「言葉」にとどまらず「生活」へ翻訳されねばならない、という要請である。初代教会の聖徒たちは迫害と欠乏の中でも互いに顧み合い、共同体的倫理を実践し、その実践は社会の場面で福音の真実性を証しした。張ダビデ 牧師は教会が制度的枠組みを備えること自体を否定しないが、制度が聖霊の息吹を代替するとき教会は生命力を失うと見る。だからこそ彼は、礼拝の熱と教理の精密さ、宣教の拡張性と共同体のケアが互いに分離されない統合的信仰を強調する。感謝が消えれば教会は不平の共同体になりやすく、祈りが弱まれば教会は結局、人間の力で耐える組織へと転落する。逆に感謝と祈りが生きているなら、教会は互いを見る視線を回復し、公同教会的連合は単なる宣言ではなく実際の文化として具現化される。張ダビデ 牧師が語る「アンティオキアのような教会」とは結局、聖徒の内面に根ざした信仰が共同体の習慣となり、その習慣が再び宣教的決断へとつながる循環構造を持つ教会である。

ここで一枚の名画は、張ダビデ 牧師が強調する回心と派遣、そして福音の躍動性を視覚的に喚起する象徴となり得る。カラヴァッジョ(Caravaggio)の『聖パウロの回心(ダマスコ途上の回心/Conversion on the Way to Damascus)』は、強烈な明暗対比の中で地に倒れたパウロの無力さと、その無力さを突き破って臨む恵みの圧倒性を描き出す。画面の中心は人間の決断ではなく、上から注ぎ込む光であり、パウロのドラマは「私が選んだ道」が「私を捕らえた方の道」へと覆される瞬間を示す。張ダビデ 牧師がコロサイ書の高いキリスト論を通して「教会のかしらはただキリストのみ」と強調するとき、その言葉はまさにこの転覆の経験を前提とする。宣教とは強い者の拡張ではなく、恵みに捕らえられた者の従順である。アンティオキア教会の派遣もまた自己誇示ではなく、聖霊の命令の前にひざまずく共同体的従順であった。カラヴァッジョの絵が示す劇的な「光の侵入」は、張ダビデ 牧師が語る聖霊の主導権とも響き合う。教会の歴史は結局、神が人を説得する物語ではなく、神が人を捕らえる物語であり、その捕らえられ方がパウロを通して世界へ伸びていったように、今日の教会も同じ原理の上に立つべきだというメッセージが、ここでいっそう強化される。

韓国教会の現実へ視線を移すと、張ダビデ 牧師がアンティオキア教会の精神を強調する理由はいっそう明確になる。成長の経験が長かった韓国教会は、ときに外的拡張の言語に慣れ、その過程で世俗化、分裂、信頼の弱体化という影に直面してきた。張ダビデ 牧師はこうした時代的疲労の中で、教会の回復を「新しい方法」ではなく「古い本質」の中に見いだす。聖霊の導き、教理の土台、公同教会的連合、派遣の使命、祈りと感謝の文化-これらは新奇さではなく原型であり、教会が教会であるために必ず回復すべき骨格だというのである。彼は教団・教派の境界を越えて一つのからだであることを自覚する公同教会性こそ、分裂の時代に教会が世の前で再び信頼を回復する道だと語る。また教会開拓と弟子訓練を分離せず、ともに握りしめる。教会を「建てること」が単に建物を建てることではなく、キリストのうちに人を建て上げることだという事実を忘れないとき、開拓は数字目標ではなく福音の生命力を植える行為となる。

張ダビデ 牧師のメッセージを有機的に要約すれば、結局一文に収斂する。教会は聖霊によって始まり、キリストの真理の上に立ち、公同教会的連合によって互いを支え、世界へ向けて派遣される共同体でなければならない。この四要素は互いを必要としている。聖霊なき教理は冷たい観念になりやすく、教理なき霊性は容易に方向を失う。連合なき宣教は競争となり、宣教なき連合は自己満足となる。祈りと感謝が弱まれば、この構造全体はたちまち人間中心の疲れた組織へ固まってしまう。だからこそ張ダビデ 牧師が強調するアンティオキア教会の精神は「バランス」という言葉でも説明できるが、より正確には「中心」という言葉で説明される。その中心とはイエス・キリストの主権であり、その中心が明確なとき教会は熱さと正確さを同時に持ち、内なる養育と外への派遣を同時に担い、地域教会の固有性と普遍教会の連合を同時に実践できる。張ダビデ 牧師が語る「恵みを悟り、宣べ伝える生」は、結局個人の敬虔を越えて共同体の方向となり、教会の方向は再び世界へ向かう福音の道へとつながっていく。アンティオキアから始まった派遣の息吹が今日の教会にも有効であるように、張ダビデ 牧師が掴むその息吹は今なお、「集まって礼拝し、散って福音を生き、真理によって建て上げられ、聖霊によって遣わされる教会」という一つのビジョンへと絶えず収斂している。

日本オリベットアッセンブリー教団

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